戦争中の「大義名分」と 戦後の「法的決定」
国際政治を考えるとき、まず押さえておくべき前提がある。戦争が続いている段階では、領土や主権を一方的な宣言によって確定することはできない。これは現代国際法の基本的な考え方である。戦争中に発表される声明や宣言は、主権を確定する“決定”ではなく、戦争を継続するための政治的メッセージとして使われる。味方を引き留め、国際世論を動かし、戦争目的を示し、大義名分を整えるためのものだ。
この原則は、今日の国際情勢にもそのまま当てはまる。ロシアによるウクライナ侵攻に対して、多くの国が「力による一方的な現状変更は認められない」と繰り返し表明しているのは、特定の地域を念頭に置いたものではない。戦後の国際秩序を支えてきた「合意によって世界を形づくる」という原則を守るための、普遍的な立場表明である。
この「合意によって世界を形づくる」という構造を具体的に理解するうえで、台湾をめぐる歴史的経緯は象徴的な例になる。台湾の地位は戦後の正式な国際合意の場で議題となったものの、冷戦構造の形成や中国代表権問題などの事情から、最終的な帰属先を明確に定めることはできなかった。こうした経緯をたどるために、台湾に関係する三つの文書──カイロ宣言、ポツダム宣言、サンフランシスコ平和条約──を取り上げ、戦争中の政治的メッセージと戦後の法的決定の違いを見ていく。
カイロ宣言の位置づけ
1943年のカイロ宣言は、米英中の首脳が発した共同声明だ。対日戦争の目的や戦後の方向性を示すために発表されたものであり、国際社会に向けた政治的メッセージとしての性格が強い。署名や批准を伴わず、条約としての形式要件を満たしていない点からも、法的拘束力を持つ文書ではないことが分かる。
当時の国際情勢を踏まえると、宣言の背景には複数の政治的意図が重なっていた。アメリカは中国戦線の維持を重視し、蒋介石政権が戦争から脱落することを懸念していた。歴史研究では、中国を戦争継続にとどめるための政治的配慮があったと指摘されることもある。同時に、連合国の結束を示す必要もあった。欧州戦線とアジア戦線をまたぐ広範な戦争を進めるうえで、米英中が同じ方向を向いていることを国際社会に示すことは戦略的に重要だった。また、国際世論に対して「連合国は戦後秩序を構想している」というメッセージを発信する意図もあったとされる。
重要なのは、こうした内容がいずれも戦争中の政治的メッセージにすぎないという点だ。戦争目的や戦後の方向性を「こうしたい」と表明したに過ぎず、主権や領土を確定する権限は持たない。いずれにせよ、カイロ宣言は主権確定の根拠にはならない。
三国志に描かれた理念と旗印
三国志は、中国後漢末期から三国時代にかけての群雄割拠を描いた歴史物語であり、史実と後世の創作が混ざり合いながら語り継がれてきた。ここで三国志を取り上げるのは、劉備の掲げた「漢室復興」という理念と、戦時中の政治的宣言であるカイロ宣言が同じ性質のものだと言いたいからではない。両者は目的も背景も異なる。しかし、“理念や宣言をそのまま領土の正統性の根拠にしてしまうと、歴史も物語も現実も破綻する”という点では、共通した構造を持っている。
劉備は後漢皇室の末裔を自称し、「漢室復興」を掲げて挙兵した。これは自らの行動を正当化し、支持を集めるための政治的スローガンだった。しかし、劉備が支配した蜀(益州)は後漢の直轄領ではなく、軍事行動によって確保した地域である。理念と領土は一致していない。
ここで重要なのは、もし理念をそのまま領土の正統性の根拠とみなすなら、三国志という物語そのものが成立しなくなるという点だ。「劉備が漢室復興を掲げたのだから、蜀の領土はすべて漢の正統領土である」という極端な解釈が成り立ってしまう。しかし、三国志の世界でもそんな理解は誰も採用しない。理念はあくまで政治的戦略であり、領土を確定する権限は持たない。
つまり、理念=領土の正統性という論理を採用すると、物語の内部構造ですら破綻する。ましてや現実の国際政治において、戦争中のスローガンを主権確定の根拠にすることがいかに無理筋かは、三国志の例を通しても理解できる。
ポツダム宣言の役割
1945年のポツダム宣言は、日本に対する降伏条件を示した文書である。その中で「カイロ宣言の条項は履行されるべき」と記されているが、これは政策方針の確認であり、カイロ宣言に法的拘束力を付与したわけではない。
戦争を終わらせるためには、降伏の方法や占領の手続き、戦後改革の方向性など、一定の枠組みが必要だった。日本がどのように降伏し、どのように占領され、どのように戦後の再建を進めるのか──その基本方針を示す文書が求められていたのである。
さらに、領土や主権の最終決定は戦争終結後の講和条約で行われるというのが国際法の実務であり、ポツダム宣言にはその権限がそもそもなかった。連合国側も戦後秩序をまだ決められない状況にあった。ソ連の動向、中国内戦、欧州再編など、国際情勢は流動的で、戦後の領土問題を確定できる段階ではなかった。
そのため、ポツダム宣言は“戦争を終わらせるための暫定的枠組み”として機能したにすぎず、主権確定の権限は持たない。
サンフランシスコ平和条約の意味
戦争が終わり、正式な国際会議が開かれて初めて、主権や国境は法的に確定する。それが1951年のサンフランシスコ平和条約だ。この条約は、日本が台湾を放棄したことを明記したが、どの国に帰属するかは書いていない。これは、戦争中の政治的宣言ではなく、戦後の正式な国際合意だけを基準に領土問題を扱うという原則に基づくものだった。
しかし、冷戦構造の形成や中国代表権問題などの政治的事情から、台湾の最終的な帰属先を明確に定めることはできなかった。条約に参加した国々の間で合意形成が不可能だったためである。結果として、台湾の地位は戦後国際法上“未確定”のまま残された。
重要なのは、主権の扱いは戦後の正式な条約で行われるという国際秩序の基本構造である。そして台湾については、その正式な場で帰属が決まらなかったという事実である。
合意によって世界を形づくるという原則
国際秩序は、戦争中のスローガンや大義名分ではなく、戦後に積み上げられた正式な国際合意によって形づくられてきた。この枠組みは、台湾問題に限らず、今日の国際情勢にもそのまま当てはまる。
ロシアによるウクライナ侵攻に対して、多くの国が「力による一方的な現状変更は認められない」と繰り返し表明しているのは、特定の地域を念頭に置いたものではない。それは、戦後の国際秩序を支えてきた「合意によって世界を形づくる」という原則を守るための、普遍的な立場表明である。
この原則に照らせば、戦争中の政治的宣言や歴史的スローガンを根拠に領土や主権を主張することはできない。主権の扱いは、戦後の正式な国際合意の場でのみ確定される。そして台湾については、その正式な場で帰属が決まらなかったという事実こそが、今日の議論の出発点である。
だからこそ、各国が自国の歴史観や政治的主張を一方的に押し通すのではなく、国際秩序に則った形で、正々堂々と議論の場を設けることが求められる。戦争中の理念や宣言ではなく、透明性のある国際的な合意の場でこそ、未来の秩序は決められるべきである。力による現状変更ではなく、合意による秩序形成こそが、戦後世界が選び取ってきた道であり、今後も守られるべき原則である。


